「SUSHI展」 展示風景 東京画廊+BTAP(東京)
↑クリックして3D GALLERYをスタート
<展示会日時>
2021年7月24日 – 9月4日
<参加アーティスト>
杉山健司, 瀧本光圀, 入江早耶, SHIMURAbros,張施烈, 倪有魚, 吴强, 姚朋, 雲永業, Gregory Halili, Shahpour Pouyan
<展示会概要>
日本、中国、香港、フィリピン、イランから計 11 組の作家の作品が一堂に集結する本展は、中国の若手キュレーター・ユニット集団 Xn とのタイアップによって実現したものです。 人々の眼差しを指先サイズの作品へと回帰させ、精巧につくられた小さいものへの礼讃を本展の趣旨としています。
展覧会タイトルの「SUSHI」は、鮨職人の小野二郎氏を追ったドキュメンタリー作品『二郎は鮨の夢を見る(Jiro Dreams of Sushi)』からインスパイアされたものです。小野氏は、料理人であると同時に、定められた型枠の中で、手技の極みを追い求める芸術家でもあります。SUSHI いとぐちということばを題することで、「細微」「精巧」「日常」「手技」を 緒 に、異なるメディアの 作品群を通して、「小中見大(小さいものを通して大きいものをみる)」といった真義の提示 を試みます。
SHIMURAbros の〈Film Without Film〉は、ロシアの映像作家レフ・ クレショフの「創造的地理」の 5 つ(約 8 秒)のシーンを選び、3D プリンターによって連続した映像を印刷した、“時間の彫刻”とも呼べる作品です。中国気鋭の作家倪有魚(ニー・ヨウユ)が世界各国の硬貨を集めて制作した、一枚のネガフィルム ほどの大きさの「コイン絵画」は、表のプレスされた凹凸模様がなだらかになるまで叩き伸ばし、 その上から小さな絵画を描き足した作品です。制作過程の中で、硬貨は貨幣としての流通価値がか き消されると同時に、芸術的価値が新たに付与されています。フィリピン出身のGregory Halili(グレゴリー・ハリ ーリ)は、素材となる真珠母貝のポリッシングを自ら行い、海や空にみる自然モチ ーフの図柄を貝に施した作品を発表し続けています。先史時代に自然貨幣としても使われていた貝 が、再びアーティストが加飾することによって、新しいマーケットの流通にのっていくその循環は、 ニーの作品の同工異曲とも言えます。
中国の水墨画家の呉強(ウー・チャン)は定規ほどの大きさの中で、宋元時代の山水画にみる「小中 見大」の精神を継ぐ丘壑(山や谷の景)を描き、美術作家の入江早耶は無病息災を祈るかのように、 古い薬袋の文字を消して、その消しゴムのカスで金剛力士像を作り、木彫作家の瀧本光國は、無数のノミ跡を残すことで、流動的な事物や姿かたちのない記憶を有形物に起こしています。中国の新進作家雲永業(ウィン・ヨンイェ)は、イタリア製のミニチュア額縁と古典的な油性木版画を用い て、思わず覗いて観たくなるような、私的かつ怪しげな小さな絵画をつくりだし、観る者にささや かな揺さぶりをかけてきます。
香港人アーティストの張施烈(ジャン・シーリエ)の作品は、一見なんの変哲もない木箱のよ うですが、じっと目を凝らして観れば、箱の中に描かれた絵から立ち上がる、意匠空間へと引 き込まれていくことでしょう。特殊なメディウムを使っているため、異なる光とアングルによ って、観え方や感じ方も変容していきます。吹き抜けの天井やモザイクフロアといった精巧なつくりの美術館を、スパゲッティの空き箱内 に構築する杉山健司の〈親密な美術館(Institute of Intimate Museums)〉シリーズでは、小さく 複製された杉山の写真作品が展示されており、鑑賞者も一人しか収容することができません。 壁や床などの内装も自身の気に入った色や模様が使われており、ディテールにこだわって作り 込まれています。
政治家の肖像が使われている切手の政治的寓意を考察する、中国人アーティストのヤオ・ポン(姚 朋)は、真贋の見分けがつかないほどの切手を手描きで創作することで、定型化された歴史に虚構 の物語を吹き込んでいます。渡英イラン人作家Shahpour Pouyan(シャプール)は、ソ連が開発 した史上最大の核爆弾「ツァーリ・ボンバ」や広島に投下された「リトルボーイ」といった、人類の文明史上にその悪名を轟かせた核爆弾をモチーフに、大小6つの異なるセラミックスカルプチャーを出品。シャプールは最もシンプルなビジュアル言語で、核開発がもたらした脅威をあらわにし、物音を立てることのない抽象的なスカルプチャーをもって、人類に深い打撃と悲しみをもたらした 核爆弾の再解釈を試みています。
そのなかでも最も小さなスカルプチャーは、拡大鏡を使うことでしか視認することができず、観る者に往時を偲ばせ、深く考えさせます。
私たちはみな、相対の世界を生きています。空を舞う一粒のダストにせよ、広大無辺なコスモ にせよ、それらすべてが相対的でありながら、相通じる共通性があることは言うまでもありま せん。小さな作品の数々を目の前にすれば、アーティストが有限なる型枠の内に、計り知れな い事物と事象を凝縮していることを知るでしょう。それこそ「芥に須弥を納る世界」であり、 このような日常の経験の外にある眼差しは、私たちに存在についての気づきを示唆してくれる のです。